Yoshida Lab. Challenge for Nano-Materials Science by Mossbauer Spectroscopy. Materials & Life Science

Mossbauer Spectroscopy

  1. Au中のFe原子の短距離秩序
  2. Cu中のγ鉄析出過程
  3. メスバウア分光+X線小角散乱
  4. 鋼のマルテンサイト
  5. FeNi合金の応力誘起マルテンサイト変態のその場観察
  6. 一軸引っ張り応力下メスバウア分光装置
  7. ZrFe合金のω変態

1.はじめに

 物質中の原子の動的挙動が問題となる現象は格子振動, 拡散, 相分離, 構造変態, 弾性・塑性変形など, 多種多様で、その時間スケールはピコ秒から数1000秒にわたっている. したがって「原子の動きを見る」ためには,その運動固有の時間・空間スケールで直接追跡できる実験手段を選ばなければならない(図1.1). 電子顕微鏡は原子集団の配列を直接像として観察できる点で極めて優れているが, 個々の原子の動きを直接観察できるわけではない. メスバウア分光は利用できるプローブ原子の種類は限られるが,100ナノ秒の時間スケールで原子の“自己相関関数”に関する情報が直接得られる. ここではメスバウア分光の基礎を簡単に解説した後,物質中の「原子の動き」に関する様々な研究を紹介する.

 図1.1 メスバウア分光で見る原子の動き

 最初のテーマは原子の動きと密接に関連する格子欠陥に関する話である. 極微量の格子欠陥を捉え,その動きを追跡した研究を紹介する。次の拡散機構の問題は1960年代までに多くの金属・合金に関しては一応の理解が得られたと考えられ, これまでに多くの解説や教科書がすでにある[1-4]. 現在では, 拡散の研究は金属間化合物やアモルファス、半導体などの新素材中の拡散測定が主に行われ、材料開発に重要な情報を提供している.ところで、最近メスバウア分光を初めとして、中性子準弾性散乱、核磁気共鳴、走査トンネル顕微鏡、ミューオンスピン共鳴等、個々の原子の動きを直接追跡できる実験手段が登場し、分子動力学によるコンピュータシミュレーションや第一原理計算の発展もあいまって、拡散研究は新しい時代に入りつつある。つまり、従来のように、物質中の原子移動を巨視的情報と現象論的なモデルを組み合わせて研究するのではなく, 原子のジャンプを直接“見て”, 理論の予測と比較しながら研究を進めることができるようになりつつある. ここでは, メスバウア分光による拡散の研究法を解説し, 高速拡散の研究に関連したいくつかの実験結果を紹介する.これまで謎とされてきた「高速拡散」の研究も, 現在, 高速拡散する原子を直接捉えることに一部成功し, ようやく,その拡散機構を原子スケールで明らかにするための出発点に立ったと考えられる[5-10].

2.メスバウア分光の基礎

2.1 超微細相互作用とメスバウアスペクトル

 メスバウア効果( Mossbauer Effect )とは, 1958年にドイツのR. L. Mossbauerによって発見された, 原子核による無反跳γ線共鳴放射・吸収の現象をいう. その発見からすでに約50年の歳月が経過し, その応用は物質科学のみならず物理, 化学, 生物学, 地質学, 医学などの分野で驚くほどの広がりを見せている. 参考文献としては「メスバウア効果の応用に関する国際会議」が2年に一度開かれており, そのプロシーディングスが各分野の応用を網羅しており興味深い[11]. また, メスバウア効果データ・センター[12]から発行されている「Mossbauer Effect Reference & Data Journal」や 「Mossbauer Handbook Series」がこれまでのデータを集大成している.

 一般に励起状態の原子核が基底状態に戻る際γ線が共鳴放射されるがこの時原子核はγ線放射とは反対方向に反跳を受け, 放射されるγ線エネルギーは大きく減少する. ところが, 原子核が固体中に束縛されていると, 反跳を受けるのが原子核一個でなく1022個の原子集団である固体全体になる. このために, 反跳によるγ線エネルギーの減少がなくなり, 図2.1に示すような実験配置で, 線源と同一原子核を含む固体薄膜を吸収体として用いれば, 容易に共鳴吸収を観測することが可能になる(γ線無反跳共鳴放射・吸収). メスバウア効果の応用研究でこれまでに最も用いられている57Feを例に取れば, 14.4keVのγ線のエネルギー幅は4.67×10-9eV,反跳エネルギーは1.96×10-3 eVである. ドプラー効果を利用して,この反跳エネルギーを補ってやるとすれば103 m/s の速度が必要となるが, 無反跳であるために0.2mm/sのドプラー速度でγ線に対しエネルギー幅4.67×10-9eVに相当するのシフトを与えることができる. 従って, 14.4 keVのγ線の計数率をドプラー速度の関数として測定すれば, 吸収スペクトルが比較的簡単に得られる. 通常の実験室での標準的なγ線線源としては, Rh中に固溶させた57Co(57Feの親核)を用いるが,後で述べるように, クーロン励起や56Fe(d,p)57Fe等の原子核反応を直接利用するインビーム実験も最近行なわれている. 他に,119Sn,. 197Au等 , いくつもの核種でメスバウア効果の実験が行なわれている. しかしながら, 高温で利用されているのは, メスバウア効果が最も観測しやすい57Feだけであるので, 以下の解説は57Feメスバウア効果に関する応用に限ることにする.

 図2.1 吸収体を試料とするメスバウア分光実験の配置

 さて, メスバウア効果による実験で得られる情報を簡単にまとめておこう. プローブ原子核が固体中に強く束縛されればされるほど, 無反跳でγ線が共鳴放射・吸収される確率f (デバイ・ワーラー因子, 又は無反跳分率)が高くなる. プローブ原子の二乗平均変位を とすれば,

  (1)

となる. ここで, λはγ線の波長で, f は吸収面積強度から求めることができる. 次に共鳴線の位置の温度変化は2次ドプラー・シフト が主なものであるが, プローブ原子の二乗平均速度を , γ線エネルギーをγとすれば, 以下のように表せる.

(2)

中性子回折から得られる格子振動の情報が結晶全体なのに対して, デバイ・ワーラー因子や2次ドプラー・シフトからは, 注目するプローブ原子の振動状態の情報が直接得られる.

 一方, プローブ原子核が周囲の電子と超微細相互作用を通して結合しているために, 原子核のエネルギー準位がシフト・分裂し, これに対応してメスバウア・スペクトルが変化する. 先ず, 原子核が有限の電荷分布を持つためにクーロンポテンシャルに差が生じ, 異性体シフトδ(アイソマー・シフト)が(3)式のように得られる. これは原子核位置での電子密度に比例する.

  (3)

実際に実験で得られるのは試料と線源の電子密度の差であるが, 文献では室温での純鉄の吸収線の中央位置を基準として表す. さらに, 原子核の電荷分布が立方対称からズレているために, 核位置に電場勾配 が存在すると電気四重極相互作用のためにスペクトルが分裂する. この分裂の大きさは,

   (4)

と表せ, ηは非対称パラメターで である.

また, 核位置で内部磁場が存在すれば, 核磁気モーメントとの磁気的相互作用により磁気分裂 を生じる. 

          (5)

これを利用して強磁性体や反強磁性体の内部磁場を求めることができ, プローブ原子とその近接の原子磁気モーメントに関する情報が得られる。たとえば、57Fe核の場合6本に分裂したスペクトルとなる. 外部から磁場を印加せずに内部磁場の温度変化を観測でき、正確な磁気転移点の測定が容易に行なえる。これを利用して高温メスバウア分光では, 熱電対の校正を鉄のキュリー温度を測定することにより行なっている(SIST-Labの項の高温メスバウア分光装置の記述参照). これにより, 試料温度を±2℃の絶対精度で正確に求めることができる.

2.2 自己相関関数とメスバウアスペクトル

 日常生活のなかで波を放出しながら動くもの, たとえば消防車を考えると,消防車が観測者に向かってくる場合と遠ざかる場合では, ドップラー効果のために聞こえるサイレンの音の高さが異なる. つまり, “波の変化”から消防車の動きに関する情報が得られる. ところで, メスバウア・プローブ57Fe原子が物質中でその寿命(100ns)の間に跳躍すると, γ線の放出もしくは吸収が図2.2のようにとびとびの異なる格子位置で起こり, これにより観測されるγ線の位相が乱される. この場合, 原子は結晶中では連続的に動くのではなく, 寿命時間のうち大部分の時間は格子位置に存在するが, たまたま隣の格子位置に飛び越えられるだけの熱エネルギーを周囲から得た場合に原子のジャンプが起きると考えられ, ジャンプに要する時間は極めて短い. この現象を Heisenbergのエネルギーと寿命の不確定性原理 で考えると,観測されるプローブ核の寿命 が見かけ上本来の寿命 より短くなるわけで, これによりエネルギーの不確定さ が大きくなる. すなわちスペクトルの線幅が自然幅より広がって観測されることになる. この線幅増加を測定することで, 拡散の“原子スケール情報”を得ることができる.

図2.2 メスバウア分光による拡散研究:鉄プローブが寿命程度の時間で固体内を跳躍すると?

このような動的効果がメスバウア・スペクトルにどのように反映されるかを理論的に最初に示し, メスバウア分光による拡散の実験的研究を提案したのはSingwiとSjolanderで, メスバウア効果の発見から間もない1960年のことであった[13]. 彼らによると, メスバウア効果のγ線放射断面積はγ線の波数ベクトル とエネルギー の関数として, 結晶中で拡散しているメスバウア・プローブ原子に対して,次式のようになる.

(3)

ここで,はデバイ・ワーラー因子で格子振動によるメスバウア・スペクトルの強度の減少を表す. さらに, は自然幅, は励起状態のエネルギーで, 和はすべてのジャンプ・ベクトル について取る. たとえば, 第一近接ジャンプのみを考えて良い場合は,すべてのn個の第一近接格子サイトについてのみを取る. 自己相関関数 は固体中の原子の拡散を扱う場合は古典的解釈を与えることができ, 時刻 で原点 にいたメスバウア・プローブ原子を時刻 で位置に見出す確率となる. すなわち, メスバウア・スペクトルには, 寿命 間のプローブ原子の自己相関に関する情報, つまり拡散機構に関するミクロ情報が直接含まれている. 従って, 高温でメスバウア・スペクトルを直接観察することにより, 拡散機構を原子レベルで研究することができる.

2.3簡単な測定例

 

メスバウア分光を相の同定やその安定性, プローブ原子の短距離秩序. 微小析出物の核生成, そしてFe原子の拡散等原子拡散や構造揺らぎ等の動的過程の研究に積極的に用いた具体例を図2.3にあげ, 一般的にメスバウア分光がどのような研究に利用できるかを概観してみよう. 最近の主要研究テーマの半導体Si中のFe原子のスペクトルは”Topics"に詳しい記述がある.


図2.3 典型的なメスバウア・スペクトル


2.3(a)の例は最も簡単な系で, メスバウア・プローブ原子(黒丸)が立方対称の結晶格子上に存在する場合である. たとえば, 純鉄やfcc, bcc中の孤立した不純物Feの状態がこの例に当たる. また, FeAl, FeTi 等, 金属間化合物中のFeの状態も, この例のように単一のローレンツ型スペクトル線として観測される.異なる物質中ではFeの核位置での電子密度が異なるので, 前述したアイソマー・シフトを利用して, たとえば, ある規則相が存在するか否かを判別することが可能である.  高温になるとプローブ原子(57Fe)が平均寿命, 約100nsの間に格子点の上をジャンプするようになる. するとγ線の位相がジャンプにより乱され, このγ線は本来の寿命より短く観測されるようになる. すなわち不確定性原理()よりスペクトルの線幅は自然幅よりもずっと拡がって観測される. 従って,線幅から原子の跳躍頻度や跳躍方向に関するミクロな情報が直接高温で得ることができる. これを利用して, これまでに多くの拡散機構に関する研究が行なわれ, 高温メスバウア分光の成果として重要であるので, 後に詳しく紹介する.

さて, 次の図2.3(b)は Au-5at%Fe[14]合金の800℃でのスペクトルで, プローブFe原子の濃度が高く, 孤立したFe原子の成分(モノマー)に加えて,Feダイマー(2原子Feクラスター)等の微小クラスターの成分が存在する. スペクトルの斜線で示したダブレット成分がこのダイマーに対応する. Au-Fe合金ではダイマー等のクラスター成分の相対強度がFe原子を全くランダムにFCCのAu格子に配置したときに期待される値よりも小さく, Fe原子の間に短距離秩序が存在することが判明した. さらに, 各成分の相対強度からFe原子の短距離秩序度が導出できるので, その温度変化を高温で直接測定することに成功した. また, モノマーやダイマー等の線幅を別に追跡できるので, これからダイマーFe原子の解離ジャンプ頻度も調べることも基本的には可能である. 同様な系で, 逆にクラスター成分がランダムな場合よりも大きいのがCu-Fe合金[15]の場合で, γ-Feの核生成過程を直接高温で追跡することに成功している.  一方, 金属間化合物でも, 第一近接の環境に応じて異なるスペクトル成分が得られる. これらの面積強度を利用すると, 短距離秩序度を温度の関数で測定することも可能となる. メスバウア分光はプローブ原子の第一近接の原子配置によりスペクトル線の位置や分裂の様子が決まるので, X線, 中性子, 電子線回折等から得られる結晶全体の原子配列や, 小角散乱から得られる析出物の大きさや形状等に関する情報と全く相補的な原子論的情報をメスバウア分光から得ることができる.  

図2.3(c)の例は系が2相状態にある場合で, 異なる相に属するFe原子は異なるスペクトル成分となり, それぞれの相を温度の関数として, その出現や安定性を直接高温でその場観察可能になる. 一方, 拡散の研究に関連して, トレーサー実験では拡散係数をそれぞれの相で同時に求めることは不可能であるが, 高温メスバウア分光では個々の成分の線幅からそれぞれの相におけるFe原子のジャンプ頻度を別々に議論できる.
例にあげたZr-5at%Fe[16]のスペクトルは800℃で測定されたもので, β-Zr中のFeの成分とZr3Feの成分(斜線)が見られる. 明らかにβ-Zr成分の線幅はZr3Feよりはるかに拡がっているので,β-Zr中のFeの拡散がZr3Fe中より速いことを直接示している.  

図2.3(d)ではβ-ZrNb-Fe[17]合金中に高温650℃で平衡状態に構造揺らぎ(ω揺らぎ)が存在することを直接示している. このような構造揺らぎはこれまで中性子散漫散乱などで調べられているが, 明確な結果には至っていない. これらの研究はβ相中におけるFe原子の高速拡散の研究に関連して行われた.  

図2.3(e)は重イオン加速器を利用した”インビーム・メスバウア分光”の典型的なスペクトルである. この方法によれば, クーロン励起や56Fe(d,p)57Fe等の原子核反応を直接利用して, 励起状態のプローブ原子Feを直接格子間位置に注入して, その動的振舞を直接観察することができる. この例ではα-Zr中に導入された格子間Fe原子が局所ジャンプ(ケージ運動)する様子が, 四重極分裂の緩和現象を通して直接観測[18]されている.

3. 格子欠陥

3.1 格子欠陥

図3.1 結晶格子中の点欠陥;(a)原子空孔. (b)格子間原子. (c)置換不純物原子. (d)格子間不純物原子(藤田英一「格子欠陥」より).

 一般に有限温度にある結晶には図3.1に示すような点欠陥が存在する. これは点欠陥に伴って配置エントロピーや振動エントロピーが増加するために, 自由エネルギーが低下することによるものと考えられている. また, 点欠陥のみならず, 転位や結晶粒界などの構造欠陥は, 加工変形, 高エネルギー照射, 高温急冷, 融液からの凝固等で結晶に自然に導入され, 物性に大きな影響を与えている.

 メスバウア分光はこれまでに述べてきたように, プローブ原子の第一近接の環境変化に敏感であり,プローブ原子を格子欠陥の近傍に持ってくることができれば, 格子欠陥の局所構造や動的挙動に関するナノスケールの情報が得られるものと期待できる. しかしながら, 熱平衡状態はもちろんのこと, 低温照射, 冷間加工または高温急冷後に試料中に生成される格子欠陥濃度は最大10-4程度で極めて低く, メスバウア分光で“格子欠陥成分”を検出するためには試料作成や測定法の工夫が必要である.すでに格子欠陥の研究分野では, 格子欠陥を過剰に導入後,その回復過程を電気抵抗や陽電子消滅等で調べる方法や電子顕微鏡で2次欠陥の成長を“その場観察”する方法等, 確立された研究手法がある. これらの方法は,いずれも個々の点欠陥を直接観察し,その動きを直接追跡するものではなく, 点欠陥が生成・移動・消滅を繰り返した結果形成される欠陥集合体を観察して, この過程を記述する一組の現象論的微分方程式で定量的に解析し,点欠陥の移動度等の情報を得ようとする間接的手法である.したがって, 今後の格子欠陥研究で重要と考えられるのは, 特に点欠陥の動的挙動, すなわち原子空孔, 格子間原子そして不純物原子のジャンプ過程, さらに2次欠陥核生成・成長過程等を直接実時間で追跡し, その機構を原子スケールで解明することであろう. このためにメスバウア分光は一つの強力な手段となり得る. 以下にこれまでに行われたメスバウア分光による格子欠陥の代表的な研究例を挙げ, その動的挙動の研究に対するメスバウア分光の可能性を明らかにしよう.

3.2 欠陥トラッピング法

図3.2 欠陥トラップ法により捕らえたAl中の格子間Fe原子のケージ運動

 プローブ原子と格子欠陥の間に引力相互作用が存在する場合, 点欠陥を過剰に導入後に, 点欠陥が動く温度で熱処理を行えばプローブ原子に格子欠陥が捕捉される. この場合は格子欠陥濃度が低くても, プローブ原子は優先的に格子欠陥近傍に存在してその周りの局所環境に関する情報を送ってくれる. G. VoglらはAl中に57Feプローブの親核である 57Coをドープし, 高速中性子や電子による低温照射実験を行い, 置換格子位置に固溶した57Co原子がAl格子間原子を捕捉したスペクトル成分を見出した[19]. 図3.2に2.8MeVの電子線照射を行い,その後Al格子間原子が動くとされるステージI(〜60K)のすぐ上の温度で焼鈍したAl-20ppm 57Coの57Feメスバウアスペクトルの4.2Kから30Kの温度変化を示す[20].斜線の成分がAl格子間原子1個を捕獲した57Coが格子間位置に動き, 57Feに崩壊後に得られたスペクトル成分である. 図3.2にこの面積強度を温度の関数としてプロットしてあるが, 15K付近で急激に面積強度が減少しているのが判る. これは図3.3に示すように57Fe原子が100ナノ秒の間に面心立方の八面体位置を中心に8個のサイト間を局所的にジャンプする. いわゆる“ケージ運動”をしているためと解釈されている[21]. すなわち, ケージ運動が起こると格子間Fe原子成分のスペクトルの線幅が急激に広がり, 見かけ上面積強度の減少が観測される. 他の欠陥移動が生じない温度領域(この系では25〜30Kが適当)で, スペクトルの見かけの面積強度は, をデバイ−ワーラー因子, γ線波数ベクトルを, N個のケージ内の格子間位置ベクトルとしたときに,

   (1)

と表すことができる. つまり, 実験から面積強度のγ線方向依存性を測定すると, 逆にFe原子位置ベクトル, すなわちケージ運動のジャンプサイトをモデルとの比較で決定することができる. 20K以下では依然格子間Fe原子成分が線幅の広がった成分として観測される. 線幅増加は2.6.2で述べるようにジャンプ頻度と比例関係にあり,

. (2)


これから, 活性化エネルギーはこの成分の線幅増加を温度の逆数でプロットすることにより=18±1meVという値が得られている(図3.4)[21]. このケージ運動は格子間Fe原子に特有な局所ジャンプ過程であり, 長距離拡散の前駆現象と考えられている. その起源に関しては明らかでないが, 格子間Fe原子の周りのAl格子が歪み, Fe原子に対するポテンシャルが図3.3の位置で極小になっているのではないかと推察されている. しかしながら, 現在までのところ, 第一原理計算ではこのようなポテンシャル極小は見出されていない.


図3.3  Al中の格子間Fe原子のケージ運動と見かけの共鳴面積の角度依存性

 さらに, Al中では急冷実験により過剰原子空孔を導入した系でも, 原子空孔が57Co原子に捕捉されることが見出されている[22,23]. Al以外ではAu中の119Sbでも原子空孔とSbのクラスター成分が見出されている[24]. しかしながら, この「欠陥トラッピング法」は他の系でAl中と同じように点欠陥の動的挙動の解明まで至った例はほとんどなく, 適用範囲が限られている.

図3.4 格子間Fe成分の温度変化と線幅増加量のアレニウスプロット

3.3 低エネルギーイオン注入実験


  数10〜100keVの注入エネルギーでメスバウア・プローブ原子を物質中に打ち込めば, 減速過程で生成されるカスケード損傷により多くの点欠陥が最終的にプローブ原子の近傍に存在することになる. もちろん, 各原子が数回ずつはじき出されるような高線量での注入を行ったとしても, 大部分の点欠陥は数ピコ秒の間に再結合により消滅してしまうので, プローブ原子の周りの点欠陥濃度は数%にもならないと考えられているが, 焼鈍実験を行えば, 欠陥回復過程でプローブ原子と点欠陥のクラスターやプローブ原子を含む欠陥集合体が形成されると期待される.この方法を利用した点欠陥およびその集合体の研究は極めて多くあり,最近ではH.de Waard とL. Niesenによる総合報告[25]があるので, ここではこの方法の問題点を簡単にまとめるのみに止める.

注入エネルギーが数10〜100keVでは,注入原子は表面から数1〜100nmのレンジを有するので,注入線量が1014atoms/cm2以上では, プローブ原子濃度は10-3/cm3以下でプローブ原子間の相互作用は無視できるものの, カスケードの重なりが生じ, 格子間原子ループや原子空孔クラスターの生成など, プローブ原子の周りの欠陥分布は複雑なものとなる. したがって, 焼鈍実験を行い欠陥クラスターや集合体の生成・成長過程を追跡し, 点欠陥とプローブ原子の反応素過程を研究しようとすると, 出現するスペクトル成分数が数成分以上になり, 最小二乗法で成分を分離しようとするとかなり困難となる. 残念ながら, 従来行われてきたイオン注入を利用したメスバウア分光による格子欠陥の研究は解析が詳細過ぎ, 成分検出の限界を超えて議論したものが多く見受けられた. 従って, 低エネルギーイオン注入試料による点欠陥の研究を行う際には, 出現するスペクトル成分が数成分以下になるような状況, たとえば極めて低注入線量1012〜1013atoms/cm2で線源実験を行う必要がある(図3.5).

図3.5 低エネルギーイオン注入後のSi中の57Co/57Feメスバウアスペクトル

3.4 インビーム・メスバウア分光法

 最近, 重イオン加速器を利用した“インビーム・メスバウア分光法”により、バルク試料中の点欠陥の動的挙動をナノ秒の時間スケールで直接その場観察することが可能になってきた.インビーム・メスバウア分光法は, 短寿命励起核を様々な原子核反応を利用して生成し, 励起核プローブから放出されるγ線を同時に計測する. このγ線のスペクトルが注入57Fe原子の近傍の原子配列と自己相関関数すなわちジャンプ過程に関する微視的情報を与える. 通常のメスバウア分光の実験では, 長寿命の親核からの崩壊を利用して, “メスバウア核励起状態”を得る. 一方, インビーム・メスバウア分光は, クーロン励起等により, 短寿命核の励起状態を直接生成し, プローブ原子を物質に反跳エネルギー等を利用して注入し, 同時に測定する新しい方法である. 励起核を生成する方法によりプローブ原子の注入エネルギーも異なり, たとえば,56Fe(d,p)57Fe反応では数100keV, クーロン励起後の反跳イオン注入では数10MeV, 入射核破砕反応では数100MeV〜数GeVの従来の低エネルギーイオン注入では利用されなかった高い注入エネルギーとなる.

 クーロン励起・反跳イオン注入法は1968年にG.E. Sprous, G. M. Kalvius, F. E. Obenshain らにより初めて用いられ, パイオニア的な研究が試みられたが, 当時の加速器の性能やγ線検出技術等の制約があり, 固体物理研究への本格的な応用には至らなかった. その後, 1980年代に入りBerlin, Hahn-Meitner 研究所に於いて, 重イオン加速器VICKSIから十分なエネルギーと強度の重イオンビームを利用できるようになり, インビーム・メスバウア分光装置が新たに設置され, 高速拡散に関する研究が行われた[5-7, 10,18]. 現在, 理化学研究所では同種の装置に加えて, 入射核破砕反応後のオンライン・アイソトープ分離装置(RIPS)があり57Mnを利用した実験が開始されている. さらに, 入射核破砕反応による装置はこれから増強され, あらゆる短寿命核を大強度ビームとして分離し,物質にGeVのエネルギーで注入するための施設がRIビームファクトリーとして2006年末に完成予定である. これまでインビーム・メスバウア分光法は57Feメスバウア・プローブにほぼ限られていたが, 今後, 様々な核種で実験が可能になり,
原子核プローブの動的挙動を直接原子スケールでその場観察できる強力な実験手段になるであろう.

図3.6 クーロン励起・反跳イオン注入法の実験配置

さて. インビーム・メスバウア分光法の中のクーロン励起・反跳イオン注入実験を以下に説明する.
重イオン加速器からの110MeVの40Arパルスビーム(パルス幅:1〜2ns, パルス間隔:200〜400 ns)を57Feの金属箔(3mg/cm2)に照射する(図3.6). これにより57Feの14.4keVのメスバウア効果に利用するレベルがクーロン励起され, 同時に高い反跳エネルギーで57Feがはじき出される.これを試料で受けとめ(反跳イオン注入), 打込んだプローブ原子とその極く近傍の状態を, イオン注入直後から励起状態の寿命(140ns)程度の時間測定する.はじき出される57Feの角度分布は40Arビームに対し約20゜〜70゜の間にピークを持ち, 40Arが試料に同時に打ち込まれることはない. 反跳エネルギーは数MeVのオーダーと高く,57Feは試料中深く(数μm)静止した後,無反跳メスバウアγ線を放出する. これを真空チェンバーの外に置かれた, 平行平板アバランチ検出器(PPAC)でスペクトル測定を行う.
適当な測定時間窓設定後の,最終的な全計数率は約5〜10カウント/秒(デバイ・ワーラー係数に依存)となる.
ひとつのスペクトルを得るのに必要な時間は通常数時間で, 10〜850 Kの温度領域, 10-7〜10-8mbの真空度で測定可能である.

 これまでの実験結果から注入57Fe原子は金属・半導体ではおおむね置換格子位置または格子間位置に止まり, そのジャンプ過程をその場観察することが可能であることが明らかになってきた.この方法は,1つのスペクトル測定に必要な57Feの個数が約1011と極めて少なく, 注入深さが数10〜100μmに及ぶ. 従って, カスケードの重なりは全く無く, Fe原子の周りの欠陥濃度は低いことが知られている. 特に, 物質によってはプローブ原子 57Feを直接格子間位置に打ち込むことが可能である. つまり, 格子間57Fe原子の動的振る舞いを, スペクトル線幅増加や超微細相互作用の緩和現象に着目して直接観察することが可能である.

図3.7 α-Zr中の57Feインビーム・メスバウアスペクトル:(a) 24 K, (b)〜(g)は格子間Fe成分と欠陥成分のみ

図3.8 共鳴面積(a)、四極子分裂(b)、センターシフト(c).      図3.9  α-Zr中の57Fe格子間原子ケージ。

 典型的な例として,α-Zr中に於ける57Feインビーム・メスバウアスペクトル[18]を図3.7に示す. 24Kで通常の格子位置に止ったFeによる成分(65%の相対強度)のほかに, 30%の格子間Feによる成分が存在する. この格子間Fe成分が, 図3.8 (a, b) に見られるような50K付近で四重極相互作用の緩和を伴う共鳴面積強度の急激な減少を示す.この異常な温度変化は格子間Fe原子が局所的なジャンプ(ケージ運動)をするときに理論的に期待されていたものである. ケージ運動は上述したように,Al中の格子間Fe原子でG.Voglらにより初めて実験的に見いだされ[19-21], その後,このインビーム・メスバウア分光法[7]でも同様に見出されたが, その際,面積強度の減少のみが観測され,理論の予測にもかかわらず, 四重極相互作用の緩和は明らかではなかった.観測されたメスバウア・パラメータの温度変化から,α-Zr中のFe格子間原子は50K以上で, 図3.9のような八面体格子間位置からわずかにずれたケージ位置上を高速でジャンプしていると考えられる. インビーム・メスバウア分光による実験結果として, α-Zr, Sc, Y, Ti, Nb, Pb, Sn, Li, Na, K, さらにはSi, Ge 中の57Feの測定がある[7].

この方法は励起状態にある57Feを高エネルギーで注入直後, 放出されるメスバウアγ線を100nsのオーダーの時間のみ測定するので, 従来のメスバウア分光法に比較して, いくつかの興味ある特徴を有する.

(1)メスバウア・プローブ原子を基本的にはあらゆる物質に打ち込んでメスバウア効果を測定可能である.従って, メスバウア原子の溶解度が存在しない系でも, 注入直後の孤立した57Feの状態に関するミクロな情報を得ることができる. この点に関しては従来, 低エネルギーイオン注入後のオフライン・メスバウア分光実験で問題となっていた, 高い57Fe濃度に起因するクラスター成分やカスケード間の重なり等の複雑な効果は, インビーム・メスバウア分光のスペクトルには存在しない.

(2)物質によってはプローブ原子57Feを直接格子間位置に打ち込むことが可能である. これから, 格子間57Fe原子の動的振る舞いを,スペクトル線幅増加や超微細相互作用の緩和現象に着目して,直接観察することが可能である. この特徴は, 以下に述べる高速拡散の研究には非常に重要である.

(3)Ar パルスビームを用いて57Feの励起状態を生成しているので, 時間分割測定が比較的容易に行える.
たとえば,57Fe注入直後からいくつかの測定時間窓を設定して, 「打ち込んだ57Fe原子がその周りに存在する点欠陥とどのように相互作用するか?」, 実時間で追うことが基本的には可能であろう. これは, 将来のインビーム・メスバウア分光の興味ある応用として期待されている.

3.5 照射誘起偏析

 高エネルギー粒子により点欠陥が移動できる温度領域で物質を照射すると,平衡状態相の安定性が変化し, 照射誘起偏析が起こることが報告されている. メスバウアプローブ自身が偏析する場合にはその核生成から成長に至る過程を原子スケールで追跡することが可能になる. 図3.10はAu-0.1at%57Fe試料中に点欠陥のシンクとしてHeバブルをα粒子注入後に600℃で熱処理することにより導入し, その後220℃で2.3MeVのプロトン照射を行った試料のメスバウア・スペクトル測定の結果[26]を示す.(a)はα粒子注入後に600℃で熱処理したAu-0.1at%57Feのスペクトルで, Heバブル導入前のスペクトルと全く一致し,面心立方のAuの格子に固溶したFeの短距離秩序の状態を示している. すなわち, スペクトルは孤立Fe原子(モノマー)成分(シングレット)と2個のFe原子ペア(ダイマー)成分(ダブレット)で解析でき, ランダム分布から期待できるダイマー強度0.11よりは低い相対強度0.07を有する.つまり, Feの第一近接に来るFeの数がランダム分布より少なく, Fe原子の分布は短距離秩序を有することが判る. さて,この試料をα粒子注入後に測定したスペクトルが(b),Heバブル導入前の試料を220℃で0.18dpaまでプロトン照射したものが(c),Heバブル導入後の試料を220℃で0.23dpaまでプロトン照射したものが(d)である. (b)〜(d)の照射試料ではモノマー. ダイマー成分に加えて斜線のダブレット成分が観測される. これは平衡状態では全く存在せず“照射誘起偏析”成分であると考えられる. また,Heバブルを含まない試料でプロトン線量依存を調べた結果(図3.11),この成分は照射の極めて初期から形成され,そのアイソマー・シフトや四重極分裂の大きさはほとんど変化しない. さらに, この成分は330℃の熱処理で元の短距離秩序状態に戻ることが確かめられた(図3.12).

図3.10 Au-0.1at%57Fe試料中(a)に点欠陥のシンクとしてHeバブルをα粒子注入後(b)に600℃で熱処理することにより導入し, その後220℃で2.3MeVのプロトン照射を行った試料のメスバウア・スペクトル:(c)Heバブルなし、(d)Heバブルが存在。

図3.11 Heバブルを含まない試料でスペクトルのプロトン線量依存

 さて, この“照射誘起偏析”成分がFe原子のどのような配列に対応しているか議論するために,図3.13にAu中のFe原子やγ‐Fe, α‐Fe, Feクラスター, Fe単原子層, そしてFe格子間原子に対する四重極分裂の大きさを各成分のアイソマー・シフトの関数として整理した.照射後に得られた欠陥成分が置換格子位置のFeクラスターやγ‐Feに対応しているのであれば, 照射の初期に2原子Fe(ダイマー), 3原子Fe(トリマー), 4原子Fe等の成分強度が増加するはずであるが実験ではこのような傾向は全く観測されなかった. 一方, この成分のパラメータは後の章で述べるインビーム・メスバウア分光で観測された格子間原子Fe成分と思われる成分のパラメータとほぼ一致している.また, 照射量依存から明らかなように得られた欠陥成分のメスバウアパラメータの変化はほとんどない. すなわち,この成分の強度増加は照射初期に生成されたあるFeクラスターが“モチーフ”として繰り返し出現していることがわかる. したがって, 観測された欠陥成分の一つの可能な解釈として格子間Fe原子と置換位置Fe原子のペア, すなわちFe亜鈴型クラスター(ディプロン)が考えられ, プロトン照射中に点欠陥のシンク,たとえば試料表面やHeバブル近傍にこのFeクラスターの集合体として析出したものと解釈できる.

       図3.12 スペクトルの熱処理依存性           図3.13 四極子分裂とアイソマーシフト相関

 ここでは, 一つの欠陥成分を系統的な実験結果を利用して同定する過程を詳細に示した. さらに, 第一原理計算からこのメスバウアパラメータが再現できれば, 照射誘起偏析成分が確定し, その核生成から成長に至る照射誘起偏析機構を原子スケールで解明できるものと期待される.

3.6 微量不純物

 平衡状態の点欠陥の挙動に関連して, シリコン単結晶中の微量Fe不純物を900〜1000℃付近で高温メスバウア分光法により直接観察し, 半導体特性に直接的な影響を与えるFe不純物の挙動を直接調べた例を紹介する.図3.14はメスバウアプローブ57Fe原子をSiに30at.ppmの濃度が得られるように真空蒸着し, 異なる温度で行った測定結果(27)を示す. 蒸着直後(a)は強磁性a-Fe. 300℃から900℃((b)〜(d))では表面付近にFe-Siが形成され, 温度と共に変化していることが判る. (e)は1100℃で1週間熱処理後に1000℃で測定したスペクトルで, (a)〜(d)と比べて吸収面積が大きく減少している.図3.15はさらに測定温度を下げながら測定したスペクトルで, シングレットに加えて700℃以下で新たにダブレットが出現する. このダブレットの相対強度は測定温度の降下と共に増加する. Fe-Siの相図からα-FeSi2とβ-FeSi2の析出物が出現すると予想されるので, これらのFe-Siの高温メスバウアスペクトルを調べるために, Si-14at%Feの試料を1100℃から室温までの温度範囲で測定した(図3.16). この測定ではSi中に固溶したFeの量は極めて微量であるので, Si中に析出したα-FeSi2とβ-FeSi2のスペクトルのみが観察される.この結果を図3.14と3.15のスペクトルと比較すると, Si-30atppm.57Feで観察されたシングレットはα-FeSi2やβ-FeSi2析出物とは異なる. 一方,Si中のFeの不純物拡散は高速拡散で, かなりの割合のFe原子が格子間原子として固溶していると考えられるが, 拡散係数から判断して格子間Fe原子成分は線幅が広がり1000℃の高温領域では吸収線として観測することは不可能である. したがって, 観測されたシングレットは置換格子位置のFe原子ではないかと考えられる.

図3.14 熱処理過程におけるメスバウアスペクトル      図3.15 降温過程におけるメスバウアスペクトル

図3.16 Si-14at%Feの試料を1100℃から室温までの温度範囲で測定したメスバウアスペクトル

【結晶粒界・転位】メスバウア分光による格子欠陥の研究例の最後に結晶粒界や転位に関する研究の可能性について論じる. 粒界拡散はバルク中の拡散よりも数桁拡散が速いので, プローブ原子を試料表面に蒸着し粒界拡散を利用してプローブ原子を粒界内に拡散させ, 粒界成分を観測した例[28]がある. また, 転位に関する研究はAl中の57Co線源試料を低温で塑性変形を加え, その後の熱処理で出現する欠陥成分について議論した研究がある[29]. 最近. 一軸引っ張り応力下でメスバウア分光測定[30]が可能になったので, 今後, 応力下でのその場観察における研究が進展するものと期待されている.

4. 拡散研究への応用

4.1 拡散方程式と拡散機構

物質中の拡散の測定は, 表面にトレーサ原子(溶質原子)を付着させ, 適当な温度で拡散させた後, その濃度の深さ分布を測定する. この方法は数分から数時間, 時には数日に及ぶ拡散時間の後に, 各トレーサ原子が「どこまで到達したか」を調べることに対応しており, 本来, 「トレーサ原子1個1個がどのような機構で動いているのか」を直接観測しているのではない. 一般に, 物質移動をこのような巨視的立場から定量的議論を行う場合, 拡散係数を用い, これが位置に依存しない場合には,

, (1)

となり“拡散方程式”が得られる. これをのとき表面の溶質濃度をとして初期値と境界条件を考慮して解くと, ある時刻tでのトレーサ原子の濃度分布は

, (2)

すなわち, ガウス分布となる. したがって, 実験から得られるトレーサ原子の深さ分布をガウス関数で解析することにより, 拡散係数Dが得られる. このような研究手法を用いて, これまで多くの物質でトレーサ法による拡散係数Dの実験データが蓄積されている.

4.2 原子の跳躍とメスバウア・スペクトル

 ある拡散過程の中にはいくつか異なるジャンプ頻度とジャンプ・ベクトルが含まれている. たとえば, 空孔拡散機構による不純物拡散では5ジャンプ頻度モデルで議論されるように, 原子空孔とプローブ原子との間での結合・解離ジャンプ頻度とベクトルは異なる. このような場合には, 原子空孔のジャンプを考慮して, メスバウア・プローブ原子の自己相関関数を拡散機構モデルに従って理論的に評価するためには, かなり複雑な定式化が必要である[31]. その結果, メスバウア・スペクトルは異なる線幅と強度等を持ついくつかのローレンツ関数の重ねあわせとして表現される. より詳細な理論的取り扱いが必要な読者は文献を参照していただきたい. 以下では議論を簡単にするために, ランダム・ジャンプの場合の定式化のみを紹介し, 線幅増加とトレーサー拡散係数Dの関係を導くことにする. この場合には, スペクトルは単一のローレンツ関数で表せ, ChudleyとElliott[32]によればジャンプ頻度による線幅増加は,

(4)

と書ける. つまり線幅増加はγ線の波数ベクトルとジャンプ・ベクトルとの間の角度により変化する. 多結晶試料についてはすべての可能なジャンプ方向について平均することが必要で,

(5)

となる. Wolf[33]は自己拡散で第一近接格子位置の原子空孔へのジャンプについて“メスバウア相関因子”を評価しており, 面心立方と体心立方格子についてそれぞれ0.69と0.64となっている.

一方, Einstein-Smoluchowskiの関係から, トレーサー相関因子)として,

(6).

式(5)と(6)から, 線幅増加と拡散係数Dの関係は,

(7)

と得られる.

(7)式によりスペクトルの線幅増加から拡散係数Dを導出するための条件や注意点を挙げておく.

  • 線幅増加が長距離拡散に起因したものであるかを, 局所的ジャンプ過程の可能性も含めて検討を要する.
  • 拡散の機構が空孔拡散または格子間原子拡散と考えて良い系であり, かつランダム・ジャンプと考えられること.
  • 不純物拡散で原子空孔と不純物原子の相関が強い場合は, メスバウア相関因子を改めて評価しなければならない.
  • 異なるジャンプ過程が共存する場合は, 個々にモデルを構築し, 自己相関関数を評価する必要がある. さらに, トレーサー拡散係数と比較することで, モデルの正当性を検討することが必要である.
  • 線幅増加が観測されるジャンプ頻度であること, すなわち拡散係数がm2/sの範囲となる測定温度を選ぶ.
  • 試料は2相であってもよい. 但し, 個々の相のスペクトル成分が十分分離しており, プローブ原子がそれぞれの相の中では, 一種類のサイトを占有すること.
  • 多結晶で特定の結晶方位が試料中に存在する場合, たとえば, 測定中に結晶粒の成長がある場合には, 拡散係数を厳密に決定することは注意を要する.

4.3 高温測定に必要な実験装置と測定技術[9]

 メスバウア分光による拡散測定を行うためには,多くの場合,かなりの高温領域での測定が必要となる. 高温1200K以上ではメスバウア効果の起こりやすさの目安であるデバイ・ワーラー因子(f)が室温より約一桁小さく, またスペクトルの吸収面積も小さい. さらに, 拡散測定を行う温度領域では線幅が増加するので, スペクトルを精度良く測定することが非常に困難となる. 試料によっては一つのスペクトルに数日の測定時間が必要で, すべての温度領域の測定が終了するのに数ヶ月を要することもある.従って, 高温メスバウア分光装置の設計は何よりも先ず良いS/N比と安定に長期動作可能なものにすることが不可欠である.

図4.1 高温メスバウア分光装置

図4.1に高温メスバウア分光装置の写真を示す. 分光装置は通常のメスバウア・ドライブ(A)とγ線計測装置(B), 真空チェンバー(C)に組み込まれた電気炉(D), 排気装置(E),そしてドップラ速度較正用測定台(F)から成る. 測定には1.85〜3.7 GBqのRh中に熱拡散された強力な57Co線源を利用しているので, 放射線遮蔽には十分な配慮が必要である. そのため, 較正台(F)は線源交換のための放射線遮蔽も兼ねている. また, 鉛遮蔽容器中に固定された重いメスバウア・ドライブを較正台から測定位置に放射線被ばく無しに移動するための移動用装置(G)も備えている.

図4.2 高温メスバウア分光用測定炉とその断面図

【真空チェンバーと排気装置】
図4.2は高温メスバウア分光用測定炉の配置図である. 測定炉は, 鉛遮蔽容器中に固定されたメスバウア・ドライブ(A)と測定炉本体(B), 電流導入端子(C), 熱電対導入端子(D),試料ホルダー用回転フランジ(E), γ線線源(F)と検出器(G),真空ゲージ(H)等の部分から成る. 高温測定炉設計の中心課題を以下に挙げる:(1)14.4keVの低エネルギーγ線の試料部分以外での非メスバウアγ線吸収を小さくする, (2)電気炉からの熱の漏洩が少ないものとする, (3)高計数率を確保するためにγ線線源(F)と検出器(G)との間の距離をできる限り小さく抑えることである. 測定炉(B)の中心部分の断面を図4に示す. 真空チェンバーのγ線窓(a)には高純度の100mm厚のAl箔を利用し, 水冷されたステンレス真空容器にかしめることにより真空を保持している. 電気炉(b)はアルミナのパイプ(内径25mm, 外径32mm, 高さ32mm)にTaの0.5 mmφの線を数十回, 試料位置に磁場が印加されないように巻いている. この炉体を2 mm厚のTa容器(c)中に置き, これを0.5 mm厚の3重のTa熱遮蔽板(d)の中心に固定している. γ線透過部分は2 mm厚のZr箔(e)をTa遮蔽板に固定している. Zr箔は14.4keVのγ線に対してはその吸収端の近傍にあり, 異常透過により吸収が小さく, しかも高温で, 酸素のゲッターとして試料の酸化を防止する役目を果たす. 温度はアルミナの炉体と試料ホルダーに2組のPt-PtRh熱電対(f)を固定して測定し, 熱電対の較正には純鉄のキュリー温度を測定する. 電気炉の電源と温度制御装置は市販のものを利用できる.

排気装置には, 前段にターボ分子ポンプ, さらに測定中はイオンポンプを利用している. これにより, 1200K以上の高温で10-7〜10-6Paの真空度を維持でき, 長期に及ぶ測定でも試料の酸化や, ポンプの振動によるスペクトルの線幅増加等の問題が全くない測定が可能となる.

【試料ホルダーとキャプセル】高温で長時間保持し, スペクトル測定を行う際に, 最も困難な点は, 試料の保持方法と, その蒸発を如何に最小限に抑えるかである. 図4.3は通常の実験で利用しているTa製の試料ホルダーである. これを図4.2の電気炉(b)の中心位置に, γ線に対する角度を真空チェンバーの外から変えられるように, 回転導入端子の先端にアルミナ棒を介して固定している.

          図4.3 Ta試料ホルダー             図4.4 純鉄の高温メスバウアスペクトル 

以下にメスバウア・スペクトルを高温で測定する場合のいくつかの実験技術上の問題点を,BerlinのHahn-Meitner研究所で行ったγ, δ- Feの測定例[34](図4.4)で考えてみる. このデータを用いて, 線幅の増加量から拡散係数を評価できるが, これについては次の節で述べる.

1200K以下の測定では, Ta試料ホルダー(図4.3)からの汚染も大部分の試料では問題ない. そのため, 30mm厚のFe試料と同一材料で小さな短冊を作り, これによりホルダーと試料の直接接触を避けて試料を保持し測定できる. 一方, 1200K以上の高温にすると, TaとFeの間で拡散が生じ, Fe試料を汚染してしまう. さらに, δ- Feは蒸気圧が高く, そのままδ相まで測定温度を上昇させると, 薄膜試料は数分ですべて蒸発してしまう. 一つのスペクトル測定には少なくとも数十分から数時間は必要で, 蒸発を最小限に抑えるために, 試料をキャプセルするための材料が必要となる. もちろん, 14.4keVのγ線は十分透過し, しかもFeと測定中に反応しない材料でなければならない. 以上の厳しい条件を満たすキャプセルとして, BN, Al2O3等はこの場合適当でなく, 1 mm厚BeOが利用された. これは, Taホルダーとの熱膨張係数の違いを利用して, 高温になればなるほど BeOのディスクの密着性が良くなることを利用したものでる.

4.4 多結晶鉄の自己拡散

 メスバウア分光により拡散係数が求められた例は, これまでのところそれほど多くない. 以下に最も単純な系と考えられる純鉄中の自己拡散[34]の研究と, 未知の拡散機構の研究例として単結晶βTiFe合金中のFe原子の“高速拡散”の研究[35]とを紹介する. ウィーン大のVogl教授のグループでこれまでに行われた, 単結晶Al[36]やCu[37]中のFe原子の不純物拡散の研究や, 最近精力的に行われている金属間化合物の拡散機構に関する研究[38,39]については文献を参照されたい.

図4.5 γFeとδFeに対する線幅増加        図4.6 線幅増加から求めた拡散係数のアレニウスプロット

図4.4はγ-Feとδ-Feの高温メスバウア・スペクトルである. それぞれ図中の各温度で, 約1日の測定を行った. δ-Feのスペクトルはγ-Feに比べて, 格段に広がった吸収線となっている. これはδ相の自己拡散が約2桁γ相に比べて早いことを直接反映している. 非常にシャープに見えるγ-Feの1623Kでのスペクトルの線幅も実は自然幅より広がっている. 線幅を温度の関数としてプロットしたのが図4.5で, グラフ中にはγ相のスペクトルの線幅を拡大して示している. 観測されるスペクトルの線幅は線源と試料であるFe箔吸収体の和であるので, ここでは吸収体の線幅のみを示している. 測定は結晶粒成長による影響を避けるために, 測定温度は上昇・下降を繰り返し行った. これにより, 同一測定温度では測定期間中常に同じ線幅増加を与えることを確認した. 1183Kから1473Kの温度範囲ではmm/sで, この値は自然幅mm/sにほぼ一致している. そこで線幅増加量はで得られる. γ-Feとδ-Feの自己拡散はアイソトープ効果の測定から共に空孔拡散機構であると考えらるので, 拡散係数の評価にはジャンプ距離Rとして第一近接距離を取ってみる. このを(7)式に代入し, 拡散係数を評価した結果を図4.6に示す. 図の中で直線で示したものが, トレーサー実験の結果であり, メスバウア・スペクトルの線幅増加から得られた結果と良い一致が得られている.

メスバウア分光による拡散の研究は, 単結晶試料が得られた時に, ジャンプ頻度とジャンプ・ベクトルに関する情報が同時に得られる点に非常に大きな特長がある.実際に, 単結晶Al[36]やCu[37]中の不純物Fe原子の拡散やFeAlやFe3Si[38]の金属間化合物を高温で直接測定し, モデルとの比較からジャンプ頻度とジャンプ・ベクトルが得られている. これらの系は空孔拡散機構と考えれば, メスバウア分光から得られる“拡散係数”とトレーサー実験から得られる拡散係数は良い一致が得られている.

4.5 高速拡散

図4.7 βTi中のFeメスバウアスペクトルの角度依存

  金属や半導体中の金属不純物拡散で自己拡散よりも数桁も速く拡散する現象, いわゆる“高速拡散”がPb, Sn, In, Zr, Ti等の多価金属, Na, K等のアルカリ金属, Si, Ge等, 半導体で知られている. この現象は何らかの格子間原子が関与する拡散と考えられているが, 実験で直接高速拡散する原子を捉えた例はこれまでに無かった.多結晶βZrFe合金中のFeの拡散もこの高速拡散であると考えられており,吉田らは上に述べた超高真空高温測定装置で高温β相のメスバウアスペクトル[16]の測定に成功した. しかしながら,得られたスペクトルの線幅増加から計算した“拡散係数”を同じ試料で行われたトレーサー実験の結果[40]と比べると, “メスバウア拡散係数”はトレーサー実験の結果より一桁高くなることが判明した. このような両者の矛盾は空孔拡散が期待できる金属・合金ではこれまでに見出されておらず, 高速拡散における原子のジャンプ過程が空孔拡散とは異なるために, 先に述べた線幅増加量から拡散係数を求める(7)式の方法は高速拡散では成立しないことを意味している. この問題を解決するために, ジャンプ頻度のみならず, ジャンプ・ベクトルを同時に決定することが可能な単結晶による高温β相での実験が望まれるが, 高温相で直接結晶方位の明らかな単結晶を得ることは極めて困難である.

 図4.7は単結晶βTi-13原子%Fe合金のスペクトル[35]で, 1298Kにおけるγ線に対する角度依存である. このスペクトルを解析するためには少なくとも2成分が必要で,異なるジャンプ・ベクトルを含むモデルを構築して, この角度変化を再現する拡散機構が検討された. 結晶方位が明らかではないので, さらに実験が必要である. 結晶方位とγ線の角度を変えれば線幅が大きく変化することは理論式(4)から予想されるが, 実験的にも実際に図4.7から明らかであろう.

5.まとめ

 原子のジャンプ過程を直接“見て”, その自己相関関数に関する情報から拡散機構を研究することが可能になり始め「拡散研究」は新しい時代に入りつつある. しかしながら. 単結晶を利用した実験により原子のジャンプ頻度とベクトルが同時に決定された研究例はまだ極めて少ないのが現状である. また, 利用できるプローブ原子が57Feに限られ, トレーサ実験ほど, 拡散を研究できる系は多くない. Spring-8等の放射光施設や理化学研究所に建設されているRIビーム・ファクトリーが完成すれば, 異なる核種でも充分な強度の線源が生成可能になる. これによりメスバウア効果の観測がむずかしい核種でも高温測定が可能になり, 高温メスバウア分光やインビーム・メスバウア分光に利用できるアイソトープの種類も増えることが期待される. また, メスバウア分光を利用すれば, 電子顕微鏡では観測できないようなクラスターや微細析出物の高温その場観察も可能である.実際. 高速拡散は極めて低い溶解度と密接な関係があり, クラスターや微細析出物の成分がスペクトルに共存する場合も多い. メスバウア分光はこのような複雑な系でも拡散研究が可能であり, 今後多くの研究グループが生まれることを願ってやまない.

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