蜜柑の木から

冬の夏ミカンの木

私が静岡県の冬の象徴と思うものです.

ただただ青い空.それは天気の悪い日もありますが,晴れた日のこの何にもない青さ.

蜜柑の木.3月下旬の大学受験帰りの新幹線の窓から見えた蜜柑畑の木が人生で初めて見た光景でした.当時住んでいた長野県東部は,3月下旬はまだ枯れ野に枯れ山,大地もようやく深く融けて地面の水分も乾いた感じになってくるころ,それなのに,生気溢れる緑の葉と金色の実,感動の極みでした.海側の席から身を乗り出すようにして見たのか,山側の席で張り付くように見たのか,そこだけが思い出せないのですが,どちらにしても目が離せなかったのをのをよく覚えています.

総合情報学部 コンピュータシステム学科 野村 恵美子


どちらも私が育った信州の山の中にはないものです.抜けるような青空とか,普通はないですね.晴れていたってどこか雲がただよっているものです.実がなっている蜜柑の木とか,そうでなくたって,真冬につやつやの緑の葉っぱとか,何これ!?の世界でした.「さざんか,さざんか咲いたみち〜〜」とか,本当にあるんだ!と思いましたよ.

でも,静岡県に生まれて育てば,こういうことは当たり前すぎて,何言ってんだかくらいにしか思われないでしょうね.

蜜柑の木から思うことをつらつらと...

高校の日本史の授業の中で,奈良時代,県犬養三千代が功を称され橘の実を浮かべた酒杯を賜ったこと,後に息子の葛城王が聖武天皇から橘姓を賜り,そのときの御製歌

橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の木

が万葉集に残されていることを聞いた.その授業のとき,どうして橘だったのだろうかと強く思った.授業にも教科書にもそれに答えるものはなく,橘の実(意識としては小さめの蜜柑)の浮かんだ酒杯の絵だけが強く記憶に残り,この歌はのことは忘れてしまった.

ずっと後になって,この歌を覚えてしまうほど聞かされることになった.「される」で多分に迷惑感を表すが,1回だけ迷惑感が全くなくとても印象的だったことがあった.そのとき上に書いたような初めて蜜柑の木を見たときのことが思い出された.そしてこの歌には同じ感動があると思った.聖武天皇は橘の木を見て感動したのだろうか.

私は蜜柑の木などあり得ないところに育ち,大学を受験する年齢で初めて蜜柑の木を見てすごく感動した.同じ感動がこの歌にあるとすれば,聖武天皇も子供のころは蜜柑の木を見たことがなかったのだろうか.大体,「枝に霜降れどいや常葉の木」とは,「枝に霜が降っているって言うのに,なんと葉っぱつやつや!」ってことではないか.このような光景や常緑広葉樹が当たり前のところに住んでいる人が言うことではないような気がする.大和周辺で蜜柑の木がないとか,そんなはずはないと思う.でも,もしこの歌に同じ感動があるとすれば,聖武天皇にとっては蜜柑の木は「当たり前」ではなかったのではないか.聖武天皇は長じてから初めて蜜柑の木を見たのだと思う.聖武天皇は子供の頃どこにいたのだろうか.

日本書紀の中には橘にまつわる話が他にもある.垂仁天皇の命を受けて田道間守(たじまもり)が非時香菓(ときじくのかぐのこのみ,橘の実と言われる)を探しに行く.持ち帰るまでに10年かかり,帰ったときには垂仁天皇はすでに亡くなっていた.10年は大げさなのかもしれないが,それにしても,橘がそれほどめずらしいものであったのだろうか.西日本なら,それほどのことはなかったのではないか.この話を知った時はいつだったか忘れてしまったが,そのときも垂仁天皇の居所は日本ではないかのようだと思った.

蜜柑の木の印象から思ったことがその通り展開されている歴史をこの本で知った.

小林惠子日本古代史シリーズ第八巻 八世紀[一]・盛唐時代 すり替えられた聖武天皇
小林惠子日本古代史シリーズ第九巻 八世紀[二]・衰退に向かう唐 「安・史の乱」と藤原仲麻呂の滅亡

小林惠子氏が書く日本古代史は学校で習うこととは全く違い,さらにちょっと信じられないスケールで展開されている.カスタマーレビューのなかにはしばしば「トンデモ」という言葉が出てくる.氏の歴史では聖武天皇も垂仁天皇も現在の中国東北地方の人である.そして,聖武天皇は垂仁天皇のこの故事を知っていて田道間守の忠誠を葛城王に期待して橘姓を賜ったのではないかという.

どうして橘か.文字に残された歴史は答えない.起きたこと,あったこと,考えたこと,思ったことなどを全て書き残すことはできないので,文字に残された歴史は所詮点でしかない.「どうして」に答える歴史を書くことは,残された点から絵を復元することなのだろう.私は「どうして」に答える歴史書が好きだが,推量を含みすぎと批判されているように見える.

以前調べたソフトウェアシステムの開発過程は,わずかにわかった点をたよりに開発しながら何を作ればよいのか発見していくような過程であった.発見の結果はソフトウェアシステムとして出来上がりそれが絵となったが,わかって動いていたのはコンピュータで,開発していた人々はそれが何をするシステムであったのかを,結局,人間の言葉では語らなかった.残された資料を読み込んで整理して,結局こういうシステムを作るつもりであったのかと,人間の言葉で書いた資料を作って見てもらったら,当の開発者の方は,最初からこんな風にわかっていたら良いシステムができるでしょうね...と感慨深げであった.

歴史上のことに「どうして」と考えることと,とソフトウェアシステムをどうすればよいのかと考えることは,点の間を埋めて絵を作るという点でよく似ていると思う.人間,好きなものにはパターンがあるのかもしれない.