2.メスバウア分光の基礎
2.1 超微細相互作用とメスバウアスペクトル
メスバウア効果( Mossbauer Effect )とは, 1958年にドイツのR. L. Mossbauerによって発見された, 原子核による無反跳γ線共鳴放射・吸収の現象をいう. その発見からすでに約50年の歳月が経過し, その応用は物質科学のみならず物理, 化学, 生物学, 地質学, 医学などの分野で驚くほどの広がりを見せている. 参考文献としては「メスバウア効果の応用に関する国際会議」が2年に一度開かれており, そのプロシーディングスが各分野の応用を網羅しており興味深い[11]. また, メスバウア効果データ・センター[12]から発行されている「Mossbauer Effect Reference & Data Journal」や 「Mossbauer Handbook Series」がこれまでのデータを集大成している.
一般に励起状態の原子核が基底状態に戻る際γ線が共鳴放射されるがこの時原子核はγ線放射とは反対方向に反跳を受け, 放射されるγ線エネルギーは大きく減少する. ところが, 原子核が固体中に束縛されていると, 反跳を受けるのが原子核一個でなく1022個の原子集団である固体全体になる. このために, 反跳によるγ線エネルギーの減少がなくなり, 図2.1に示すような実験配置で, 線源と同一原子核を含む固体薄膜を吸収体として用いれば, 容易に共鳴吸収を観測することが可能になる(γ線無反跳共鳴放射・吸収). メスバウア効果の応用研究でこれまでに最も用いられている57Feを例に取れば, 14.4keVのγ線のエネルギー幅は4.67×10-9eV,反跳エネルギーは1.96×10-3 eVである. ドプラー効果を利用して,この反跳エネルギーを補ってやるとすれば103 m/s の速度が必要となるが, 無反跳であるために0.2mm/sのドプラー速度でγ線に対しエネルギー幅4.67×10-9eVに相当するシフトを与えることができる. 従って, 14.4 keVのγ線の計数率をドプラー速度の関数として測定すれば, 吸収スペクトルが比較的簡単に得られる. 通常の実験室での標準的なγ線線源としては, Rh中に固溶させた57Co(57Feの親核)を用いるが,後で述べるように, クーロン励起や56Fe(d,p)57Fe等の原子核反応を直接利用するインビーム実験も最近行なわれている. 他に,119Sn,. 197Au等 , いくつもの核種でメスバウア効果の実験が行なわれている. しかしながら, 高温で利用されているのは, メスバウア効果が最も観測しやすい57Feだけであるので, 以下の解説は57Feメスバウア効果に関する応用に限ることにする.
一般に励起状態の原子核が基底状態に戻る際γ線が共鳴放射されるがこの時原子核はγ線放射とは反対方向に反跳を受け, 放射されるγ線エネルギーは大きく減少する. ところが, 原子核が固体中に束縛されていると, 反跳を受けるのが原子核一個でなく1022個の原子集団である固体全体になる. このために, 反跳によるγ線エネルギーの減少がなくなり, 図2.1に示すような実験配置で, 線源と同一原子核を含む固体薄膜を吸収体として用いれば, 容易に共鳴吸収を観測することが可能になる(γ線無反跳共鳴放射・吸収). メスバウア効果の応用研究でこれまでに最も用いられている57Feを例に取れば, 14.4keVのγ線のエネルギー幅は4.67×10-9eV,反跳エネルギーは1.96×10-3 eVである. ドプラー効果を利用して,この反跳エネルギーを補ってやるとすれば103 m/s の速度が必要となるが, 無反跳であるために0.2mm/sのドプラー速度でγ線に対しエネルギー幅4.67×10-9eVに相当するシフトを与えることができる. 従って, 14.4 keVのγ線の計数率をドプラー速度の関数として測定すれば, 吸収スペクトルが比較的簡単に得られる. 通常の実験室での標準的なγ線線源としては, Rh中に固溶させた57Co(57Feの親核)を用いるが,後で述べるように, クーロン励起や56Fe(d,p)57Fe等の原子核反応を直接利用するインビーム実験も最近行なわれている. 他に,119Sn,. 197Au等 , いくつもの核種でメスバウア効果の実験が行なわれている. しかしながら, 高温で利用されているのは, メスバウア効果が最も観測しやすい57Feだけであるので, 以下の解説は57Feメスバウア効果に関する応用に限ることにする.
図2.1 吸収体を試料とするメスバウア分光実験の配置
さて, メスバウア効果による実験で得られる情報を簡単にまとめておこう. プローブ原子核が固体中に強く束縛されればされるほど, 無反跳で\(\gamma\) 線が共鳴放射・吸収される確率\(f\)(デバイ・ワーラー因子, 又は無反跳分率)が高くなる. プローブ原子の二乗平均変位を\(\left\langle x^2\right\rangle\)とすれば,
\begin{align}
f = exp \left( \frac{- 4 \pi^2}{\lambda^2}{\left\langle x^2\right\rangle} \right)
\end{align}
となる. ここで,\(\lambda_0\)は\(\gamma\) 線の波長で,\(f\)は吸収面積強度から求めることができる. 次に共鳴線の位置の温度変化は2次ドプラー・シフト \(\delta E_D\) が主なものであるが, プローブ原子の二乗平均速度を\(\left\langle V^2\right\rangle\), \(\gamma\) 線エネルギーを\(E_\gamma\)すれば, 以下のように表せる.
\begin{align}
\delta E_D = \frac{E_0}{2} \frac{ \left \langle V^2\right \rangle\ }{c^2}
\end{align}
中性子回折から得られる格子振動の情報が結晶全体なのに対して, デバイ・ワーラー因子や2次ドプラー・シフトからは,注目するプローブ原子の振動状態の情報が直接得られる.
一方,プローブ原子核が周囲の電子と超微細相互作用を通して結合しているために, 原子核のエネルギー準位がシフト・分裂し, これに対応してメスバウア・スペクトルが変化する. 先ず, 原子核が有限の電荷分布を持つためにクーロンポテンシャルに差が生じ, 異性体シフト\(\delta\)(アイソマー・シフト)が \eqref{isomershift}式のように得られる. これは原子核位置での電子密度に比例する. \begin{align} \delta = C \frac{\Delta R}{R}(|\phi_A(0)|^2 - |\phi_S(0)|^2) \label{isomershift} \end{align} 実際に実験で得られるのは試料と線源の電子密度の差であるが,文献では室温での純鉄の吸収線の中央位置を基準として表す. さらに, 原子核の電荷分布が立方対称からズレているために,核位置に電場勾配\(V_{ZZ} \)が存在すると電気四重極相互作用のためにスペクトルが分裂する. この分裂の大きさは, \begin{align} \Delta = \frac{eQV_{ZZ}}{2}\left( 1+ \frac{\eta^2}{3} \right)^\frac{1}{2} \end{align} と表せ,\(\eta\)は非対称パラメターで \begin{align} \eta = \frac{V_{xx}-V_{yy}}{V_{ZZ}} \end{align} である.
また, 核位置で内部磁場が存在すれば, 核磁気モーメントとの磁気的相互作用により 磁気分裂を生じる. \begin{align} E_m = -g_N \mu_N H_i m_I \end{align} これを利用して強磁性体や反強磁性体の内部磁場を求めることができ, プローブ原子とその近接の原子磁気モーメントに関する情報が得られる。たとえば、57Fe核の場合6本に分裂したスペクトルとなる. 外部から磁場を印加せずに内部磁場の温度変化を観測でき、正確な磁気転移点の測定が容易に行なえる。これを利用して高温メスバウア分光では, 熱電対の校正を鉄のキュリー温度を測定することにより行なっている(SIST-Labの項の高温メスバウア分光装置の記述参照). これにより, 試料温度を±2℃の絶対精度で正確に求めることができる.
一方,プローブ原子核が周囲の電子と超微細相互作用を通して結合しているために, 原子核のエネルギー準位がシフト・分裂し, これに対応してメスバウア・スペクトルが変化する. 先ず, 原子核が有限の電荷分布を持つためにクーロンポテンシャルに差が生じ, 異性体シフト\(\delta\)(アイソマー・シフト)が \eqref{isomershift}式のように得られる. これは原子核位置での電子密度に比例する. \begin{align} \delta = C \frac{\Delta R}{R}(|\phi_A(0)|^2 - |\phi_S(0)|^2) \label{isomershift} \end{align} 実際に実験で得られるのは試料と線源の電子密度の差であるが,文献では室温での純鉄の吸収線の中央位置を基準として表す. さらに, 原子核の電荷分布が立方対称からズレているために,核位置に電場勾配\(V_{ZZ} \)が存在すると電気四重極相互作用のためにスペクトルが分裂する. この分裂の大きさは, \begin{align} \Delta = \frac{eQV_{ZZ}}{2}\left( 1+ \frac{\eta^2}{3} \right)^\frac{1}{2} \end{align} と表せ,\(\eta\)は非対称パラメターで \begin{align} \eta = \frac{V_{xx}-V_{yy}}{V_{ZZ}} \end{align} である.
また, 核位置で内部磁場が存在すれば, 核磁気モーメントとの磁気的相互作用により 磁気分裂を生じる. \begin{align} E_m = -g_N \mu_N H_i m_I \end{align} これを利用して強磁性体や反強磁性体の内部磁場を求めることができ, プローブ原子とその近接の原子磁気モーメントに関する情報が得られる。たとえば、57Fe核の場合6本に分裂したスペクトルとなる. 外部から磁場を印加せずに内部磁場の温度変化を観測でき、正確な磁気転移点の測定が容易に行なえる。これを利用して高温メスバウア分光では, 熱電対の校正を鉄のキュリー温度を測定することにより行なっている(SIST-Labの項の高温メスバウア分光装置の記述参照). これにより, 試料温度を±2℃の絶対精度で正確に求めることができる.
2.2 自己相関関数とメスバウアスペクトル
日常生活のなかで波を放出しながら動くもの, たとえば消防車を考えると,消防車が観測者に向かってくる場合と遠ざかる場合では, ドップラー効果のために聞こえるサイレンの音の高さが異なる. つまり, “波の変化”から消防車の動きに関する情報が得られる. ところで, メスバウア・プローブ57Fe原子が物質中でその寿命(100ns)の間に跳躍すると, \(\gamma\) 線の放出もしくは吸収が図2.2のようにとびとびの異なる格子位置で起こり, これにより観測される\(\gamma\) 線の位相が乱される. この場合, 原子は結晶中では連続的に動くのではなく, 寿命時間のうち大部分の時間は格子位置に存在するが, たまたま隣の格子位置に飛び越えられるだけの熱エネルギーを周囲から得た場合に原子のジャンプが起きると考えられ, ジャンプに要する時間は極めて短い. この現象を Heisenbergのエネルギーと寿命の不確定性原理\(\Delta E \Delta t \geqq \hbar \)で考えると,観測されるプローブ核の寿命 が見かけ上本来の寿命 より短くなるわけで, これによりエネルギーの不確定さ が大きくなる. すなわちスペクトルの線幅が自然幅より広がって観測されることになる.この線幅増加を測定することで, 拡散の“原子スケール情報”を得ることができる.
図2.2 メスバウア分光による拡散研究:鉄プローブが寿命程度の時間で固体内を跳躍すると?
このような動的効果がメスバウア・スペクトルにどのように反映されるかを理論的に最初に示し, メスバウア分光による拡散の実験的研究を提案したのはSingwiとSjolanderで, メスバウア効果の発見から間もない1960年のことであった[13]. 彼らによると, メスバウア効果の\(\gamma\) 線放射断面積は\(\gamma\) 線の波数ベクトル\(\boldsymbol k\)とエネルギー\(\hbar \omega\)の関数として, 結晶中で拡散しているメスバウア・プローブ原子に対して,次式のようになる.
\begin{align}
\sigma({\boldsymbol k},\omega) = f \rm{Re} \frac{1}{\pi \hbar} \int_{- \infty }^{+ \infty } {exp \left( -i(\omega-\omega_0)t - \frac{ \Gamma_0 t}{2 \hbar } \right)} { \sum^{}_{i} exp \left( i {\boldsymbol k \cdot R} \right) G({ \boldsymbol R_i}, t)}dt
\end{align}
ここで,\(f\)はデバイ・ワーラー因子で格子振動によるメスバウア・スペクトルの強度の減少を表す. さらに,\(\Gamma\)は自然幅,\(E\)は励起状態のエネルギーで, 和はすべてのジャンプ・ベクトル\(\boldsymbol R_i\)について取る. たとえば, 第一近接ジャンプのみを考えて良い場合は,すべてのn個の第一近接格子サイトについてのみを取る. 自己相関関数\(G({\boldsymbol R_i}, t)\)は固体中の原子の拡散を扱う場合は古典的解釈を与えることができ, 時刻\(t=0\)で原点\({ \boldsymbol R_i = 0}\)にいたメスバウア・プローブ原子を時刻\(t=t\)で位置\({ \boldsymbol R_i}\)に見出す確率となる. すなわち, メスバウア・スペクトルには, 寿命\(\tau_M\)間のプローブ原子の自己相関に関する情報, つまり拡散機構に関するミクロ情報が直接含まれている. 従って, 高温でメスバウア・スペクトルを直接観察することにより, 拡散機構を原子レベルで研究することができる.
2.3簡単な測定例
メスバウア分光を相の同定やその安定性, プローブ原子の短距離秩序. 微小析出物の核生成, そしてFe原子の拡散等原子拡散や構造揺らぎ等の動的過程の研究に積極的に用いた具体例を図2.3にあげ, 一般的にメスバウア分光がどのような研究に利用できるかを概観してみよう. 最近の主要研究テーマの半導体Si中のFe原子のスペクトルは”Topics"に詳しい記述がある.
図2.3 典型的なメスバウア・スペクトル
図2.3(a)の例は最も簡単な系で, メスバウア・プローブ原子(黒丸)が立方対称の結晶格子上に存在する場合である. たとえば, 純鉄やfcc, bcc中の孤立した不純物Feの状態がこの例に当たる. また, FeAl, FeTi 等, 金属間化合物中のFeの状態も, この例のように単一のローレンツ型スペクトル線として観測される.異なる物質中ではFeの核位置での電子密度が異なるので, 前述したアイソマー・シフトを利用して, たとえば, ある規則相が存在するか否かを判別することが可能である. 高温になるとプローブ原子(57Fe)が平均寿命, 約100nsの間に格子点の上をジャンプするようになる. すると\(\gamma\) 線の位相がジャンプにより乱され, この\(\gamma\) 線は本来の寿命より短く観測されるようになる. すなわち不確定性原理(\(\Delta E \Delta t \geqq \hbar \))よりスペクトルの線幅は自然幅よりもずっと拡がって観測される. 従って,線幅から原子の跳躍頻度や跳躍方向に関するミクロな情報が直接高温で得ることができる. これを利用して, これまでに多くの拡散機構に関する研究が行なわれ, 高温メスバウア分光の成果として重要であるので, 後に詳しく紹介する.
さて, 次の図2.3(b)は Au-5at%Fe[14]合金の800℃でのスペクトルで, プローブFe原子の濃度が高く, 孤立したFe原子の成分(モノマー)に加えて,Feダイマー(2原子Feクラスター)等の微小クラスターの成分が存在する. スペクトルの斜線で示したダブレット成分がこのダイマーに対応する. Au-Fe合金ではダイマー等のクラスター成分の相対強度がFe原子を全くランダムにFCCのAu格子に配置したときに期待される値よりも小さく, Fe原子の間に短距離秩序が存在することが判明した. さらに, 各成分の相対強度からFe原子の短距離秩序度が導出できるので, その温度変化を高温で直接測定することに成功した. また, モノマーやダイマー等の線幅を別に追跡できるので, これからダイマーFe原子の解離ジャンプ頻度も調べることも基本的には可能である. 同様な系で, 逆にクラスター成分がランダムな場合よりも大きいのがCu-Fe合金[15]の場合で, \(\gamma\)-Feの核生成過程を直接高温で追跡することに成功している. 一方, 金属間化合物でも, 第一近接の環境に応じて異なるスペクトル成分が得られる. これらの面積強度を利用すると, 短距離秩序度を温度の関数で測定することも可能となる. メスバウア分光はプローブ原子の第一近接の原子配置によりスペクトル線の位置や分裂の様子が決まるので, X線, 中性子, 電子線回折等から得られる結晶全体の原子配列や, 小角散乱から得られる析出物の大きさや形状等に関する情報と全く相補的な原子論的情報をメスバウア分光から得ることができる.
図2.3(c)の例は系が2相状態にある場合で, 異なる相に属するFe原子は異なるスペクトル成分となり, それぞれの相を温度の関数として, その出現や安定性を直接高温でその場観察可能になる. 一方, 拡散の研究に関連して, トレーサー実験では拡散係数をそれぞれの相で同時に求めることは不可能であるが, 高温メスバウア分光では個々の成分の線幅からそれぞれの相におけるFe原子のジャンプ頻度を別々に議論できる.
例にあげたZr-5at%Fe[16]のスペクトルは800℃で測定されたもので, \(\beta\) -Zr中のFeの成分とZr3Feの成分(斜線)が見られる. 明らかに\(\beta\) -Zr成分の線幅はZr3Feよりはるかに拡がっているので,\(\beta\) -Zr中のFeの拡散がZr3Fe中より速いことを直接示している.
図2.3(d)では\(\beta\) -ZrNb-Fe[17]合金中に高温650℃で平衡状態に構造揺らぎ(\(\omega\)揺らぎ)が存在することを直接示している. このような構造揺らぎはこれまで中性子散漫散乱などで調べられているが, 明確な結果には至っていない. これらの研究は\(\beta\) 相中におけるFe原子の高速拡散の研究に関連して行われた.
図2.3(e)は重イオン加速器を利用した”インビーム・メスバウア分光”の典型的なスペクトルである. この方法によれば, クーロン励起や56Fe(d,p)57Fe等の原子核反応を直接利用して, 励起状態のプローブ原子Feを直接格子間位置に注入して, その動的振舞を直接観察することができる. この例では\(\alpha\) -Zr中に導入された格子間Fe原子が局所ジャンプ(ケージ運動)する様子が, 四重極分裂の緩和現象を通して直接観測[18]されている.
さて, 次の図2.3(b)は Au-5at%Fe[14]合金の800℃でのスペクトルで, プローブFe原子の濃度が高く, 孤立したFe原子の成分(モノマー)に加えて,Feダイマー(2原子Feクラスター)等の微小クラスターの成分が存在する. スペクトルの斜線で示したダブレット成分がこのダイマーに対応する. Au-Fe合金ではダイマー等のクラスター成分の相対強度がFe原子を全くランダムにFCCのAu格子に配置したときに期待される値よりも小さく, Fe原子の間に短距離秩序が存在することが判明した. さらに, 各成分の相対強度からFe原子の短距離秩序度が導出できるので, その温度変化を高温で直接測定することに成功した. また, モノマーやダイマー等の線幅を別に追跡できるので, これからダイマーFe原子の解離ジャンプ頻度も調べることも基本的には可能である. 同様な系で, 逆にクラスター成分がランダムな場合よりも大きいのがCu-Fe合金[15]の場合で, \(\gamma\)-Feの核生成過程を直接高温で追跡することに成功している. 一方, 金属間化合物でも, 第一近接の環境に応じて異なるスペクトル成分が得られる. これらの面積強度を利用すると, 短距離秩序度を温度の関数で測定することも可能となる. メスバウア分光はプローブ原子の第一近接の原子配置によりスペクトル線の位置や分裂の様子が決まるので, X線, 中性子, 電子線回折等から得られる結晶全体の原子配列や, 小角散乱から得られる析出物の大きさや形状等に関する情報と全く相補的な原子論的情報をメスバウア分光から得ることができる.
図2.3(c)の例は系が2相状態にある場合で, 異なる相に属するFe原子は異なるスペクトル成分となり, それぞれの相を温度の関数として, その出現や安定性を直接高温でその場観察可能になる. 一方, 拡散の研究に関連して, トレーサー実験では拡散係数をそれぞれの相で同時に求めることは不可能であるが, 高温メスバウア分光では個々の成分の線幅からそれぞれの相におけるFe原子のジャンプ頻度を別々に議論できる.
例にあげたZr-5at%Fe[16]のスペクトルは800℃で測定されたもので, \(\beta\) -Zr中のFeの成分とZr3Feの成分(斜線)が見られる. 明らかに\(\beta\) -Zr成分の線幅はZr3Feよりはるかに拡がっているので,\(\beta\) -Zr中のFeの拡散がZr3Fe中より速いことを直接示している.
図2.3(d)では\(\beta\) -ZrNb-Fe[17]合金中に高温650℃で平衡状態に構造揺らぎ(\(\omega\)揺らぎ)が存在することを直接示している. このような構造揺らぎはこれまで中性子散漫散乱などで調べられているが, 明確な結果には至っていない. これらの研究は\(\beta\) 相中におけるFe原子の高速拡散の研究に関連して行われた.
図2.3(e)は重イオン加速器を利用した”インビーム・メスバウア分光”の典型的なスペクトルである. この方法によれば, クーロン励起や56Fe(d,p)57Fe等の原子核反応を直接利用して, 励起状態のプローブ原子Feを直接格子間位置に注入して, その動的振舞を直接観察することができる. この例では\(\alpha\) -Zr中に導入された格子間Fe原子が局所ジャンプ(ケージ運動)する様子が, 四重極分裂の緩和現象を通して直接観測[18]されている.